福岡高等裁判所 平成10年(う)118号 判決 1998年7月13日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人紫垣陸助作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官吉瀬信義作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。
論旨は、要するに、原判決は、被告人の本件行為につき、乙山二郎の攻撃が急迫不正の侵害であったこと及び被告人の行為が防衛の意思のもとでなされたことを認めた上で、防衛行為として相当な程度を逸脱したものとして過剰防衛の成立を認めているが、当時緊急状態のもとでは、被告人の行為はやむを得ずにしたもので正当防衛に該当し被告人は無罪であるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ひいては法令適用の誤りがある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を併せて検討するに、本件及び本件に至る経過は、概略、原判決が「弁護人の主張に対する判断」の一で認定しているとおりであり、すなわち、<1>タクシー運転手である被告人は、本件当夜、酒に酔っている本件被害者乙山二郎(当時四九歳、会社経営)及び丙山夏男(当時五三歳、重機オペレーター)の両名の乗客を乗せ、しばらく走ってその指示により停車した後、些細なことから右両名から因縁を付けられ、乙山から、運転席ドアの窓越しに外から右腕や胸ぐらをつかまれ、タクシーから降りるや、同人及び丙山から、更につかみかかられ左肩付近を殴られるなどの暴行を受けたが、頭部や顔面にはさほど打撃を受けなかったこと、<2>右両名の当時の酒酔いの程度は、丙山は、後になってその行動を全く覚えていないほどの高度の酩酊状態にあり、乙山も、血液一ミリリットル当たり二・四ミリグラムのアルコールを帯び相当程度の酩酊状態にあって、その後被告人は、乙山らの暴行を避けるため走って逃げ出したが、それを追う乙山は、足がついていかず、若干ふらついている状態であったこと、<3>被告人も、右乗客二名が酒に酔った状態にあることは認識しており、逃げる際後ろを振り向いたり、乙山の下腹部を蹴ったりし、乙山に対し後記反撃を加え転倒した同人を道路脇まで連れて行った後、走り寄ってきた丙山に足をかけて倒し制圧することができたこと、<4>約七〇メートル走って逃げた被告人は、息が切れた状態になったので、道路脇にあったパネル様の板(縦約八九・五センチメートル、横約五九・五センチメートル、厚さ約四・三センチメートル、重さ約一二・五キログラム)を両手で持ち上げ、振り向いて頭上に振りかぶり、折から走り寄ってつかみかかろうとしてきた乙山の頭部付近に目がけ、特に手加減することなく振り下ろしたこと、<5>パネル板は乙山の前額部に当たり、中央付近で二つに折れ、同人は仰向けに倒れて後頭部をアスファルトの路面に強打し、後頭部打撲に基づく脳挫傷により、その二日後に死亡するに至ったこと、<6>被告人は約一五九センチメートル、約七〇キログラム、乙山の身長は約一六三センチメートル、丙山の身長は約一六八センチメートルであるところ、被告人は、青年時代結核で療養したことがあり、本件当時高血圧症、高脂血症等であって、本件後には膵炎で入院治療を受けていること、以上の事実を認めることができる。
そうすると、確かに被告人は、乙山及び丙山より体力的に劣っているのであり、乙山に約七〇メートル追いかけられて息が切れ、このままでは同人に追いつかれ、後から丙山も加わって両名から暴行を受けるとの恐怖心から本件反撃行為に及んだことは容易に推察されるところであるが、何よりも終始被害者らは素手であり、それまで被告人に加えた暴行もさほど強度のものとはいえず、酒酔いの影響により同人らの運動能力が幾分低下していた事情もうかがえるから、たとえ被告人が乙山に追いつかれるようなことがあったとしても、同人らからの更なる暴行によって被告人の身体に重大な傷害を受ける差し迫った危険性があったとは認められない。しかるに、被告人は、約一二・五キログラムもの重さがあるパネル板を振り上げ、乙山の頭部付近を目がけ手加減することなく振り下ろすという、それ自体相手に重大な傷害を与え死亡の結果すら発生しかねない危険性を有する強力な打撃を加えたものであって、右反撃行為は、社会通念上防衛のためにやむを得ない程度を超えたものと評価せざるを得ない。被害者らに比べれば冷静な状態にあったと思われる被告人としては、乙山から追いつかれそうになった段階で、同人を足蹴にしたり素手で反撃したり、パネル板を使用するとしても、それを楯にして防ぐなり、手足などを叩くなりして、より危険性の低い反撃方法をとることが可能であったと認められる(所論は、仮にパネル板で足に反撃したとしても、乙山が転倒し路面で頭部を打って死亡する可能性があったと指摘するが、その場合こそ正当防衛の成立が考えられるのである。)。
以上によると、被告人の本件行為は、防衛行為として相当性を逸脱するもので過剰防衛に該当する事案であり、正当防衛の成立を認めなかった原判決に所論の事実誤認ないし法令適用の誤りはなく、論旨は理由がない。
よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 清田賢 裁判官 坂主勉 裁判官 林田宗一)